History07 of パブリカオーナーズクラブ

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2012-12-20

繰り返されるテストドライブ

RWD化から発売予定まで2年足らずというスケジュールは、スタッフにとって楽なものではなかった。他の社員が休む年末も彼らは出勤して研究を繰り返した。しかし佐々木紫郎氏は「今度こそ自分たちも所有できる車を作っているんだという思いが励みになりました」とそのころを思い出す。そして実験の部署も同じ思いからか、いつにもまして協力的だったという。
高速テストは自社のテストコースはもとより、まだ開通していない名神高速道路を使っても行われた。そのときまでに試作車は第一次から数えると30台に達していた。
後に発売後の1962年には長谷川、松本、両氏らによって、東南アジアテストドライブも実施された。この2台のUP-10によるバンコクからシンガポールまでの長距離試験走行は、東南アジア輸出に先立ち、高温、高湿、悪路における耐久性をリサーチするのが目的であった。長谷川氏は、当時あの地域は治安が悪くて、いくところいくところで威嚇射撃の砲声が不気味にひびいていました。しかしUP-10はさしたる故障もなく見事完走した。ちなみに日程中のある日などは予定よりあまりに早く到着したために、トヨタ自工の”厳密な社内規定”により、宿泊手当ではなく、日帰り出張の手当てしかでなかった。という笑い話まで残した。

新工場建設

第3次試作が大詰めになる頃には、トヨタのUP-10にかける意気込みは、クラウン、コロナに次ぐ、本格的乗用車として相当なものになっていた。UP-10の生産には当初、前述の元町工場が充てられることとなったがそれはあくまでも立ち上げようであった。UP-10に社運をかけたトヨタは、その1車種のために日本初の専門工場の建設を決意。1962年完成に向けて、月産1万台の生産能力を有する元町第2工場が建設されることとなったのである。
またUP-10の生産に当たって、トヨタはもう一つの決断を下した。豊田英二氏の命令でシリンダーヘッドのアルミ金型鋳造を自社で行うことにしたのだ。一見何気ない事柄であるが、これは要となる部品を外注すると、万一そこの経営が悪化したときなどに安定供給が確保できなくなるので自社製造する。という今日まで続くトヨタの基本方針の始まり(その後もカローラのストラットサスペンション、触媒コンバーター、FWD車のユニバーサルジョイントなどが自社で作られた)であった。
こうして発売1年前の1960年4月、UP-10型の開発は終了した。振り返れば他社の開発期間がたいてい4年であるのに対して、2年も長い6年にわたる歳月が費やされていた。

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