History09 of パブリカオーナーズクラブ

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2012-12-20


コーラス飲んでパブリカ当てよう

宣伝戦略においても従来とは全く異なった数々の新機軸が打ち出されていった。
UP-10は、“トヨタ大衆車として1960年10月、晴海の第7回全日本自動車ショーで公開された。芝生を敷き詰めたターンテーブルの上のUP-10は、80万人の来場者の注目を浴びた。 そしてショーが終ると、今度はテレビ局に送られて、長谷川主査とともに晴海に行けなかった人の家庭にもブラウン管を通じ、その姿が紹介された。

車名公募総数108万通!

車名は新型車の話題をさらに盛り上げるべく一般公募の形式がとられた。新型登場の告知と、知名度浸透を同時にやってしまおうという作戦である。賞品は”新大衆車+100万円”という、当時としてはけた外れに豪華なものが用意された。トヨタは車名公募を、戦前に”新日本号”。1956年の”トヨエース”で行っていたが、UP-10のキャンペーンはそれとはくらべものにならないくらい大規模であった。又、そして後の日産”サニー”や”マーチ”などの同様な作戦に先駆けるものであった。
東京ショー会場で配られた応募はがきはもとより、新聞、ラジオ、テレビでも車名募集が告知された結果、締め切りまでに寄せられたはがきは108万通にもなり、積み上げると数メートル四方の山になった。続いて12月には各界から審査員とトヨタ首脳による選考が行われた。応募作品は”トヨ○○”というものが多かったが、ファミリア、コスモ、キャロル、ローレルなどそのときトヨタがきちんと商標登録しておけば、後に他社に使われなかったものも多く含まれた。そして審査の末、決定した新大衆車の名は、”パブリカ”であった。大衆=PUBLICと車=CARを結びつけた合成語である。当時販売拡張部でこのキャンペーンを担当した北垣敏郎氏〔現南北社専務取締役〕はこう回想する。「審査員の一人、藤原あきさんが”なんか(調味料の)ぱぷりかみたいねぇ”と笑っていましたね。結局、パブリカという名称の応募は数通ありましたので、築地署員立ち会いのもと、ルーレットで(矢を放つ役は日活の女優さんにお願いしました)車と賞金の当選者を1名決めました。

お茶の間とパブリカ店

さらに翌年1月には、森永乳業とのタイアップで”乳酸飲料コーラス”の王冠を送るとパブリカが100代当たる。というキャンペーンも展開された。飲み物と組合わせることによってパブリカをお茶の間の話題に持ち込んでもらおう、という作戦であった。
そればかりではない。実際の販売においてもパブリカには相当な気合いを入れていた。トヨタ自工がパブリカ専門工場を計画したように、自販もパブリカという単一車種ののために既存の販売店とは別のネットワークを作ることにしたのである。加えて従来の訪問販売ではなく、自動車先進国アメリカのように、店頭販売主体の店を目指した。それを実現するためには、販売/サービス拠点はどの町にもなければならない。つまり、“たばこ屋と同じようにパブリカ店があるようにする”のが理想である。そこで、パブリカ店は新聞広告で販売店を広く募集し、今まで自動車を売ったことのない業種からの参入も歓迎するという、従来にない方法が採られたのだ。又東京日本橋の高島屋、大阪の阪急百貨店に参加してもらうことにした。

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