History10 of パブリカオーナーズクラブ

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2012-12-20

徹底したCI戦略

販売店の名称も、それまでの店が”○○トヨタ”というように所在地が先にきていたのに対し、ユーザーが電話帳で“パブリカのお店は・・・”とさがしやすいように、”パブリカ○○”とした。このパブリカ典型列はその後カローラ発売に伴い、”カローラ店”へと名称変更する。(従って後でパブリカの販売を引き継ぐトヨタオート店の前進ではない。)
店頭販売が主体である以上、パブリカの知名度を高めなければならない。それには統一したイメージで、多くに人々の目に触れさせることが効果的である。そこで現在で言う、CI戦略を徹底的に実施することとなった。それは自動車業界では初めてのことであり、他業界を含めてもきわめて早い試みであった。当時販売拡張部でその戦略を担当した奥村潤一氏(後に南北社専務取締役)は振り返る、「それまで販売店のロゴはバラバラで中には○○トヨタと筆で書かれた看板もあったくらいです。これではいけないので、パブリカ店は全ての店を同じロゴにしました。そして同様に伝票や封筒、包装紙類もパブリカの頭文字であるPのマークを入れたものに統一したのです」
そればかりか、各店に同じ”大衆車パブリカ”のネオンサインが高々と掲げられ、側面に”パブリカ”と派手に大きくかかれたトレーラートラックまで用意された。

パブリカついに発売!東京店頭渡し価格は38万9000円

発売に先立って6月14日には、40万円以上という大方の予想より安い東京店頭渡し38万9000円という価格が発表された。これは月販3000台達成を前提とした、つまり当初は赤字覚悟の政策価格であった。その当時スバル360は37万5千円、同450が39万7千円だったかられっきとした小型乗用車でありながら38.9万円というパブリカの値段は、大きな話題を呼んだ。また他の小型車、たとえば前年に発売された三菱500の39万円に比べても買い得感は十分であった。
一方顧客のターゲットは、従来のタクシー会社や法人相手から脱皮すべく準備された。これも日本車初の試みであった。前述の奥村氏は語る。「具体的に医師、弁護士、そして学校の先生、理工系の大卒サラリーマンを狙いました。つまり”あの人たちが乗ってるからいい車なんだろう”という効果を期待したのです。そして{先生にお勧めせずに入られない車}というふうに、個々の職業に向けたDMまで作成された。
同時に早くも主婦層もその照準に据えられた。そのために後に”大根1本で1日走れます”と言った名コピーまで誕生し、当時1万円した免許取得費用があたる”奥様奨学金制度”というキャンペーンまで企画される。また、販売店には初めて車を所有する顧客のために、車庫の作り方や運転免許取得法を詳述したリーフレットも多数用意された。それは今日で言えば、ちょうどモーターボートを購入するときのようなケアぶりといえよう。そしてサラリーマンが買いやすいようにボーナス併用ローンを設定したのもパブリカが日本で最初であった。こうして1961年6月30日、パブリカはついに発売された。

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