History11 of パブリカオーナーズクラブ

history header.jpg

2012-12-20

アダとなったこれ以上はムダ

しかしふたを開けてみるとパブリカの販売は思いの外低調であった。当時目標の月間3000台は発売年の年末にも達成できず、翌年も4/5月に2000台を越えるにとどまったのである。人々はパブリカに対抗して発売された軽自動車のデラックス仕様に目を奪われてしまったのである。
例えばスバルはパブリカ登場間もない1961年9月に360デラックスを追加、それはフェンダーミラー(当時パブリカには未装着)など、兄貴分の450と同じ豊富な装備を装着しているにも関わらず、パブリカとほぼ同じ39万円だった。また、マツダもサイドモール、白リボンタイアなど装着したR360クーペのデラックス仕様を33万円で売り出したのである。
パブリカはそうした安くて立派な軽のデラックスに負けた。大衆にとって車とは、いくら小さな車とはいえ、ステイタスシンボルとして光り輝き、見栄えがするものでなければならなかったのだ。逆にパブリカの取って類のプラスチックや軽快な明るい色は、彼らの目には安っぽいと映ってしまった。皮肉なことに”これ以上はムダ”というシンプルさがあだになってしまったのである。また、軽自動車はそれ以前に、税制上の恩恵や軽免許で乗れるという大きな武器を持っていた。(それを無念に思ったトヨタは普通免許をさらに区分する限定免許を、関係各省に働きかけるまでした)
パブリカの販売不振は1962年10月に、当時小型車としては画期的な2スピードオートマティックの”トヨグライド”仕様を追加しても、思ったより好転しなかった。トヨタの焦りは日増しに深刻になっていった。低く設定した価格も、パブリカという単一車種のために莫大な投資を行い、着々と建設が進んでいる新工場も、そしてパブリカ店という専売店も、全ては目標を達成してこそペイできるものである。せめてもの慰めは、未成熟なフロントドライブにして致命的な欠陥騒ぎが起きなかったことであった。

デラックスがお好き

ところが1962年の中頃に行われたある実験が、パブリカを救うヒントになった。当時トヨタ自販唯一の直営店だったパブリカ朝日(後のトヨタ東京カローラ)で、オプションのラジオとヒーターを最初から取り付けて”特別仕様車”として売り出してみたのである。すると4万円高にもかかわらず飛ぶように売れたのだ。
その結果をみたトヨタ事項は1963年7月、パブリカデラックスUP10-D型を登場させた。高級車と同じダーク色をまとい、随所にクロームを盛って装備も充実させたデラックスは、新たに“スタンダード”と名付けられたベースモデルのシンプルさはないものの、たちまち販売台数を改善するきっかけとなった。デラックス発売前後の月平均生産台数を比べると、発売前1724台に対し、発売後が2974台でなんと7割増を達成したのである。
追って10月には前年のモーターショーに出品して好評だったコンバーチブル(UP10S)も投入された。コーチワークはトヨタの協力工場である相模原のセントラル自動車によるもので、、エンジンはU型をツインキャブで36PSにパワーアップしたUB型が搭載されていた。それはダイハツコンパーノにスパイダーが加わる1965年まで日本製小型自動車唯一の4シーターコンバーチブルとして、高級車でしか味わえなかったオープンエアーモータリングの楽しみを多くの人に知らしめることとなった。
デラックスとコンバーティブルが相次いで追加された結果、1963年12月のパブリカ登録台数はバンとあわせて7000台を突破する。さらに翌1964年1月にトラックが発売されるとついに1万台を達成した。そして1963年第1回日本GPの400~700ccクラスで1位から7位までを独占したことも販売の追い風となった。またそれを援護射撃するために俳優の大阪志郎氏を起用したキャンペーンや、いずみたく氏作曲による軽快なCFソングがTVを通じて茶の間に流された。
1965年になると、パブリカをベースにした2シーターのスポーツカー、トヨタスポーツ800が追加された。当時非常に画期的だったばかりか今日でも非常にユニークなこの空冷ライトウェイトスポーツカーについてはまた別のHPを参照していただきたい。

LinkIcon次へ


motershow.jpg700deluxe.jpg

クリックすると拡大します。