History01 of パブリカオーナーズクラブ

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2012-12-20

このパブリカこそ設計プロセスから市場戦略に至るまで従来とは一線を画し、以後のトヨタ小型車の指標になった自動車である。

1961年パブリカは日本初の本格的大衆乗用車として、トヨタの期待を一身に背負ってデビューした。途中1回のモデルチェンジを経て1978年までトヨタのラインアップにおけるベーシックカーとしての役割を担い続けた。しかしその誕生には開発/販売両面で従来とは異なった数々の試みがなされていた。それを語るにはまず終戦直後の自動車事情から話を始めなければらない。
第2次世界大戦後、朝鮮特需によるトラック生産で息を吹き返した日本の自動車メーカーは、戦争中の技術的空白を埋めるべく、海外メーカーとの技術提携に相次いで乗り出した。その結果、1953年(昭和28年)には日野ルノーが4CV、日産がオースチンA40サマーセット、そしていすゞがヒルマンミンクスのノックダウン生産をそれぞれ開始したのである。一方トヨタ自動車工業もアメリカのフォードと提携交渉を進めていた。しかし、話し合いはことのほか両者の思惑が入り乱れて難航し、結局破談となって幕を閉じた。

純国産主義

トヨタはこのとき他社に頼らず社内技術のみで開発を行う「純国産主義」の道を選択したのである。そのため戦後初の本格的乗用車とかねてから進行していたトヨペット・クラウンRS型およびマスターRR型、加えてコロナST10型の開発にさらなる力を入れたのであった。
とはいってもクラウンやマスター、コロナは技術的な先進性より耐久性を重視すべく、基本的にヘビーデューティーな米国車の小型版として計画されていた。なぜなら当時、需要の大半を握るハイヤー、タクシーを到底無視できなかったからである。しかし技術陣は早くも営業車とは関係のない、来るべきモータリゼーションの時代に相応しい車、つまり合理的な欧州車を手本にした大衆車を作らねばという意識に目覚めていた。事実、一部の技術者は、軽自動車規格を含め、その小規模な研究を開始していたのである。

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