History02 of パブリカオーナーズクラブ

history header.jpg

2012-12-20

トヨタが開発すべき大衆車の仕様

そうした動きが正式に発足するきっかけとなったのは1954年5月、豊田英二氏(当時専務)から提示された一通のメモであった。それは豊田が開発すべき大衆車の仕様に関するもので
1・・・・・・500~600cc 空冷2気筒
2・・・・・・モノコック構造
3・・・・・・フロント・エンジン・フロントドライブ・・・に始まり、ユニバーサルジョイントの種類や軽合金を用いる部分まで、全部で25項目にわたっていた。なぜ豊田氏がそのように当時としては画期的なレイアウトを、それも事細かに指示したのかは定かではない。だが察するに、氏がトヨタという組織の中で、オーナー重役として比較的自由に発言できる立場であったことと同時に、自らも工学博士である以上、私にも自動車の設計ができるのだという自負があったものと思われる。
そして1955年4月、クラウンRS型いわゆる「観音開き」がラインオフした後に、トヨタの大衆車開発チームはスタートした。当時、技術陣は現在のように車種別にチーム分けできるほどの人員がいなかったので、スタッフはクラウンが世に出てからでないとそろわなかったのである。

壊れない車はだめ

他大衆車開発チームの主査には藪田東三氏が就任した。藪田氏は戦時中、舞鶴で潜水艦の設計に携わった技術者であった。
スタッフはまず、価格がいくらの場合、どの程度の車が作れるのか、という検討から始めた。これは現在なら商品企画の第一段階で行うことであるが、米国社の縮小版を作ってみて、それにかかるコストを計算する従来の方法とはまさに「逆転の発想」であった。
また藪田氏は常にに「走行実験で壊れない車ではだめだ」というポリシーを追求した。つまり過剰品質、余裕のある設計は決してよいことではない。ぎりぎりまでシェイプアップした合理的な設計こそ理想としたのである。これも米国社を手本にオーバークオリティ、オーバーウェイト気味を善しとしていた従来の発送を根本から覆す発想であった。
分解するサンプルには、以前から社内にあったオースティンA40、モーリスマイナー、ルノー4CVなどの欧州車が選ばれ、さらなる研究のためにVWビートル、ゴリアート、そしてDKWも購入された。

LinkIcon次へ


WOOD.jpg

クリックすると拡大します。