History03 of パブリカオーナーズクラブ

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2012-12-20

国民車構想

ところが、大衆車計画が発足して約一ヶ月後の5月18日、突然新聞紙上に「国民車育成要綱案」の文字が踊った。それは、通産省自動車課によって発表されたもので2年前の1953年2月に同省重工業局自動車課の川原 晃技官が月刊誌「流線型」に書いた論文、「新しい国民自動車の構想」をベースにしたものだった。以下は要綱案の概略である。
1・・・・・・国民車の最高速度は100Km/h以上。
2・・・・・・乗車定員は4名、または2名と100Kg以上の貨物が積めること。
3・・・・・・燃費は平坦な道路で60Km/h時に30Km/l以上。
4・・・・・・大がかりな修理をしなくても10万キロ以上走れること。
5・・・・・・工場原価は、月産2000台の場合、1台15万円以下で作れること。このためには購入部品原材料費は1台10万円以下、直接工数は70時間以下に押さえることが必要。
6・・・・・・350cc~500cc、重量は400Kg以下が適当。
7・・・・・・通産省は翌年6月まで国民車の試作を奨励し、7月から実施する1次性能試験で合格したメーカー数社には補助金を出して、1957年に行われる2次試験で1台を国民車とする。
さらに要綱案には、「補助金の交付を受けた企業の試作車に含まれる特許権、製造権に関して通産大臣が必要と認めた場合にはこれを第三者に譲渡することができる。」ということも明記されていた。端的に言えばそれは1社が考案した技術は国民車を生産するためには他社も使える、ということであった。
自動車メーカーは構想に対し最初は意欲的で各社の技術責任者が集まって検討を行ったほどだった。

机上の空論?

ところがわずか4ヶ月後の9月、日本自動車工業会として「同案の条件では実現不可能」との統一見解を通産省に提出する。ネックとなったのは価格で、、ほかの条件は技術的に可能だが、それらを満たすとどうしても40万円以上になってしまうのだった。そうしたことから、構想は「笛吹けど踊らず」の形でフェードアウトしていった。
しかし国民車構想は夢のまた夢だった車に対する庶民の関心を大いにかき立てた。そしてトヨタも開発の始まった大衆車が、たとえ通産省の条件の全てを満たさないまでも国民車となり得る車と位置づけて開発に全力を投入した。
蛇足ながら、この構想には、なんと建設機械の小松製作所(現在のコマツ) が名乗り出て当時の産業界を驚かせた。コマツは4人乗りの小型車を月産2000台製造し、1台30万円で作る用意がある。と発表、さらに業界内には「近日中に日本国民自動車株式会社という別会社を設立し、車の設計はフェルナンドポルシェ博士に依頼する」という噂まで流れたのである。しかし実際にはコマツはドイツ車(車種は不明)を手本に木型まで制作したものの、結局ゼロから自動車生産を始める費用の莫大さを知るにいたり、早々に計画を断念した。

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