History04 of パブリカオーナーズクラブ

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2012-12-20

すべてがはじめて

トヨタ新大衆車に話を戻そう。藪田主査の下、そのシャシー設計に当たったのは、佐々木紫郎係長(現トヨタ中央研究所代表取締役)以下シャシー設計課第4係のスタッフであった。佐々木氏は当時を回想する。「スタッフはたった5名でした。ボディ、エンジンをのぞいた全ての設計を、その人数でこなすのです。今日ならコンピューターの助けを借りても約40名の人員で取りかからなければならない作業ですよ」もちろんCADなんてないので、すべての部品の三面図はA4の紙に手で作図した。

徹底して軽くせよ

藪田主査の「徹底して軽くせよ」との指示に答えるべく、トランスミッション・ケースを始め各部には徹底的にアルミ・ダイキャストが用いられた。佐々木氏によれば、当初マグネシウムも研究したが、加工する時に、切り粉に火がつくことや、高価であることから断念したという。
またサスペンションも、バネ装置としては一番軽量かつスペース効率が高いトーションバースプリングを前後に採用することを決定した。それにはもーリスマイナーのものが大いに役に立ったという。

空冷フロントドライブ

一方松本 清氏(現トヨタ中央研究所常勤監査役)率いる第二エンジン課は、豊田英二氏の構想に基づき、空冷フロントドライブ用エンジンの設計にあたった。FWDに相応しい、コンパクトさから、気筒配置は1955年秋までにフラットツインに落ち着いた。1946年に新卒で採用された私にとって、初めての製品設計でした」と松本氏は前出の佐々木氏同様、往時を振り返る。それに当時の豊田は戦時中の空白を埋めるべく大卒者を大量採用した直後だった。従って「私のもとで働くスタッフも、大学を出た20代の新人ばかりで皆それまでエンジンを設計したことがない者でした」と笑う。

既成概念にとらわれない試み

スタッフにとっても、空冷、水平対向、FWDはいずれもはじめての試みであった。「フォルクスワーゲン・シトロエン2CV・さらにはツンダップの2輪用エンジンも参考にしましたが私たちはそもそもシュラウドが本当に必要なのかもよくわからず、その都度実験を繰り返しました」と松本氏。また鋳造クランクも試したが、折れ易いことから鋳物に変更するなど、多くの試行錯誤が行われた。
しかし松本氏以下スタッフは、経験がほとんどない代わりに、既成概念にとらわれず、新しい基準や技術を積極的に取り入れた。たとえば、エンジンの全部は冷えるが、後部は冷えにくいという空冷独特の欠点がある。その影響でブロックが変形して、シリンダーが徐々に真円筒でなくなる問題が浮上したときスタッフは、いかにシリンダーが真円筒かをあらわす「真円度」という基準を自動車で初めて採り入れた。そして試作されたブロックの熱膨張による歪みを精密に測定することによって、変形の一番少ないものを開発していったのである。また、工作精度という概念もこの時初めて導入された。松本氏は証言する。「以前は想像した精度が発揮されないと、全てその部品の材質のせいにしていたのです。」その努力は後にパブリカ発売時のカタログコピー”10万kmボーリング不要”として開花することになった。さらには水平対向エンジンでは調整しにくいバルブ・クリアランスの維持をメインテナンスフリー化すべく、当時米国製V8などにはみられたものの、欧州車でもまれだったハイドロリック・バルブリフターを採用したのも画期的なことであった。こうしてU型と名付けられたエンジンは誕生した。

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