History05 of パブリカオーナーズクラブ

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2012-12-20

試作車1A1型公開

このように開発が進められた豊田大衆車の1時試作車”1A1"型は、開発開始以来1年数ヶ月が経過した1956年9月22日、挙母工場で公開された。その異例ともいえる試作車公開の発端は冒頭で述べたように当時販売シェアの半分以上を握っていた最大の顧客、つまりハイヤー/タクシー業界との一悶着であった。

タクシー業界怒る

トヨタが大衆車を開発していることを聞いた彼らは、「それがタクシーに使用されると、利益率の低い小型料金の車が増える上、既存の大型車を大量に所有するタクシー会社が損害を与えかねないとクレームを付けた。さらに彼らは”開発中止の要求も辞さない”という強硬姿勢まで見せたのである。もちろんトヨタは、新大衆車はタクシー用ではなく、個人ユーザーを対象であることなどを丁寧に説明した。しかし相手も”とにかく実車をみなければ納得できない”とひきさがらない。かくしてやむを得ず試作車公開に踏み切ったわけである。1A1の仕様は以下のようなものであった。
全長×全巾×全高 3650×1420×1385mm
ホイールベース 2100mm
乗車定員 4名
エンジン 強制空冷水平対向2気筒4サイクル698cc
駆動方式 FWD

トヨタの国民車

発表会には先述の小松製作所の首脳も招かれた。そして前年の国民車構想の話題が持続していたこともあって、新聞はこぞって、”トヨタの国民車”と書き立てた。
公開の後も、引き続き9台に試作車が作られ、数々のテストに供された。さらに1957年春に始まった第2次試作では、全長全高をさらに縮小して、重量を15Kg軽くすることや、リヤサスペンションをコンベンショナルなリーフに変更する事などが決定された。また新鮮味に乏しい第一次試作のスタイリングも再検討され、量産型パブリカの原型となるデザインにとってかわった。

玄関にあがれない

前述のように、新大衆車の開発は、既成概念にとらわれない若いスタッフによって数々の新技術を試みながら進められてていった。それを裏付けるように佐々木紫郎氏は「善い意味で技術的に遊ばせてもらいましたね」と当時を振り返る。
しかし彼らの前に立ちはだかった大きな壁によって、その開発は足踏み状態となる。それはフロントドライブであった。FWDは当時多かった小砂利の上り坂にさしかかるたびに、その重量配分から駆動力の弱さを露呈してしまったのである。テストは霧ヶ峰などで繰り返されたが、佐々木氏によれば、当時技術陣の間で新型車の登坂能力を試していたもう一つの場所があったという。「名古屋郊外に今もある”ふきぬき”という旅館の玄関に至るきつい坂です」FWDの試作車はそこを何回トライしても簡単には上れなかった。また、空車と4名乗車時で重量配分の変化からスタビリティーが全く異なってしまうこともスタッフを悩ませた。
しかしFWDの最大の欠点は要ともいうべきユニバーサルジョイントの信頼性であった。むろん市販品はなく、ダブルカルダン、ツェッパなどあらゆるジョイントを試作したものの、いずれも製造技術/材料が未熟であったことから、ベアリングの破損をはじめとするあらゆる故障が高頻度で発生したのである。すでに車のどこかで欠陥が発生する車が1万台中1台まで低下していた当時、FWDにすればジョイントだけで100台中1台に不具合が生じることは目に見えていた。

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