History06 of パブリカオーナーズクラブ

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2012-12-20

大切なのは信頼性。

そこで開発がスタートしてから4年目の1959年(昭和34年)2月、主査が長谷川龍雄氏(後にトヨタ自動車専務取締役)にバトンタッチされた。長谷川氏は東京帝大を卒業後、立川飛行機で高々度戦闘機キー94の設計に携わり、戦後トヨタ自工に入社した技術者である。首脳陣からの命令は、”開発が遅れている新大衆車を2年以内にラインオフさせること”であった。

長谷川龍雄主査、RWDへの転換

1959年5月、長谷川氏は新大衆車のドライブトレインをFWDから一般的なフロントエンジン、リアドライブに変更することを決め、最終の第3次試作”UP-10"の開発を開始した。(以後トヨタの車種系列にFWDが登場するのは、1978年型ターセル/コルサまでない)。しかしRWD化への転換は決して退歩ではなかった。長谷川氏は当時の状況を語る「RDW化にはトップの反対もありました。しかし、あのころ市場にFWDだから先進的などという考え方はありませんでしたし、なにより大衆が自ら運転して日常に用いる車である以上、私たちスタッフが大切にしなければならないのは、信頼性、そしてサービス性でした」

巡航速度は100km/h

一方、排気量はその時点になってもまだ何案かあったが、長谷川氏は最高速度100km/hでなく、”巡航速度”100km/hのポテンシャルを持たせるべく、700ccに決定した。これには豊田英二氏が当時の税制区分から”500~600ccがよい”と異議を唱えたが、長谷川氏は譲らなかった。「主査に指名される直前にアメリカ視察旅行をして、日本にもハイウェイ時代がくることを予見しました。そのためには最低700ccが必要だったのです」100km/hはトップスピードでなく、クルージングスピードでなくてはいけないという、通産省の国民車構想を越えた先見の明を、長谷川氏は持っていたわけである。その結果、生産型では当時の小型車としては格段に速い110km/hの最高速も可能になった。

重量規格という概念

同時に、長谷川氏は”重量規格”という概念も取り入れた。最初に580kgと車両重量を決めて、個々の部品ごとに重量を割り当てていく方法である。「航空機の世界では常識でした」と長谷川氏は言うが、当時の自動車の設計に取り入れたのはそのときが始めてであった。また同じように車両全体の原価も23~24万円と決めて各部品に原価の上限を割り振る”原価規格”という方法も採りいれた。いずれも現在では開発上最初に行われている計算が、UP-10型で初めて試みられたのである。

FWDの利点はそのままに

ただ、フロントドライブ時代の図面がことごとく捨てられたわけではなかった。たとえばタイヤはFWD時代、前輪にかかる荷重を支えるべく、多くの小型車が5.00から5.20だった当時としては太い6.00-12が与えられていた。しかしRWD化の後も、良好なスタビリティ-などの美点から、そのサイズは維持されることとなった。ちなみに生産型のトレッドが1203/1160mmと前が異常に広いのもFWDの名残でコーナーでの踏ん張りをよくするのに役立った。
またRWD化しても居住性が決してFWDに劣らないよう、また同時に重心を下げるべく、プロペラシャフトはできるだけ低い位置に通すことにした。そのため出力側シャフトを入力側の62.5mm下方に位置させたのである。

軽量素材

各部の部品には、以前にもましてダイキャスト、プラスティックといった軽量化素材が積極的に採用された。その結果UP-10----{フォルクスワーゲンはモノコック構造を採用していないので公平な比較とはいえないが}----は当時のVWビートル(750kg)やルノー4CV(665kg)より軽い580kgという重量を達成できた。行程も簡略化が徹底的に図られ、たとえばボディパネルは、大型プレスを用いてなるべく1枚板ですむようにした。同時に加工精度の追求も、長谷川氏の航空設計のノウハウが生かされて、それまでにもまして高度なものとなった。

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